万年体育3のトライアスロン斬鉄剣

いつも体育3だった運動凡人が、トライアスロンでマイペースに勝利を目指すブログ。主に日々の練習について書いてます。

父を失って。前へ、前へ。

2020年1月14日(火)に、父が他界した。

たびたび本ブログにも書いていたが、膵臓ガンだった。

66歳だった。

 

そのこともあり、ブログを書く気になれず更新が滞っていた。

告別式なども済み、忌引きも終わるし、なんとなく気持ちも落ち着いてきたのでひさびさに更新する。

 

自分の気持ちの整理も兼ねて、父との思い出などをつらつらと記していく。

 

私が幼い頃の父は、「怖いお父さん」という印象が強かった気がする。

私への躾は厳しい方だったのではないだろうか。

怒鳴られることもあったし、ゲンコツをくらったこともたびたびあった。

父は学生の頃柔道部だったのもあり、余計怖かった。笑

 

おじいちゃんが営んでいた食肉販売店を継いで、定年退職するまで守った父。

私が子供の頃、良く市場に一緒にいって競りとか見てたっけ。

競り落とした肉を、でっかい包丁で捌いてるのも良く見た。

 

そういう職人気質だったので、父は銀行とか市役所とかの人が嫌いだったな。笑

 

いまでも、道路で冷凍室がついたトラックを見かけると、父が働いていたときのことを思い出す。

競り落として、捌いて、配達。

配達も一緒に行った。

 

配達車の埃っぽい匂いと食肉の匂いが混ざった香り。

今でも鮮明に覚えている。

 

父は昔から仕事熱心だった。

「仕事行きたくない」とか「仕事だるい」とか「休みたい」とか、そういったネガティブな発言を聞いた記憶がない。

 

社会人になった自分はどうだろうか?

父のそういったことを思い出して、自分のダサさ、恰好悪さを痛感した。

 

父が言っていたが、おじいちゃんの金遣いが荒く、おじいちゃんが作った借金がかなりあったようだ。

「それを全部俺が返してやったんだ」と誇らしげにも言っていた。

 

おじいちゃんが酒以外で好き放題やって、父たち家族に、嫌な思いや大変な思いをさせたとも言っていた。

だから、父は遊ぶようなことなく、真面目に働いて私たち家族を支えてくれていたんだと思う。

 

おじいちゃんの作った借金がなければ、もっと早くに退職して株で儲けるつもりだったと、亡くなる1ヶ月くらい前の病室で私に語ってくれた。

「おじいちゃんの借金がなければ、10億は稼げたかなぁ」と、冗談だか本当だかわからないが言っていた。

 

話は変わるが、父が退職を決めた時におばあちゃんも混ぜて家族みんなでご飯を食べに行ったときのことが印象深かった。

私が退職祝いになんでもごちそうするからといって食べに行ったのは、昔から家族で良く行っていたトンカツ屋さんだった。

もっと高いものでもなんでもごちそうしたのに、なんとも父らしい。

 

その時、父は言っていた。

「おじいちゃんのせいで何度も心が折れそうになった。実際何度か折れた。それでも諦めずに全部清算して、やりきった。」

そう言ったときの父の目には涙が浮かんでいた。

 

辛いこととか、嫌なこととか、沢山あったんだろう。

それでも我々子供に弱さを見せなかった父が、少しだけ弱さを語ってくれた。

かっけえなあ。

 

私が高校を卒業するまでは厳しかった父も、大学生以降は干渉するようなことはなかった。

高校を卒業したら大人として扱ってくれたのだろう。

本当に自由にやらせてもらった。

 

「進路とか就職とか、強制するようなことはしなかった。」と、病室で語っていた。

本当にそのとおりで、自由にのびのびと生きさせてもらった。

ありがたい。

 

社会人になって、車で事故ったときとかは笑いながら「大丈夫だ」と助けてくれたし、大事なときはいつも力をかしてくれた。

私が一人暮らしをして、たまに実家に帰ったときも何も変わらず受け入れてくれたし、本当に良い父だった。

 

そんな父が、体調不良を感じ始めたのが2019年の4月頃。

食べでも吐いてしまうことがあったそうだ。

そんなことが続いたので、群大病院にいって検査入院。

 

しばらくして、腸閉塞だかの診断で、その処置を受けて退院。

その後、良くならずにまた入院。

そんなのを繰り返して、最終的に栄養補給のために腸に管をつなぐ手術が行われた。

これが10月中旬頃。

 

その後、検査をして11月3日に「膵臓ガン」と診断された。

膵臓ガンは判明するのまでが難しいらしいのと、父のは珍しいタイプだったらしく判明するのが遅れたらしい。

 

母は医者から「年内もつかわからない」と言われたといっていた。

あまりにも急だったので現実感がなかった。

なんだかんだ良くなって退院して、またいつも通り実家に父がいる風景が戻ると思っていた。

それはかなわなかったのだけれど。

 

調べてみたけれど、膵臓ガンは予後が良くない。

ほとんど死亡してしまうみたいだった。

そして、父は「こんな管もつながれて、飯も食えねぇし生きてても意味ない」と言っていた。

父らしい。

 

父がガンだとわかってからは、時間が取れるたびにお見舞いに行っていた。

父は「あんまりこなくていいよ」と言っていたけれど、残された時間が少ないとわかっていたので、少しでも話したかった。

 

父も私も、二人の時は口数が多いほうではないので、たくさん話せたかというとそうでもないように思う。

それでも、昔のことや母の事などいろいろ話してくれた。

「俺は浮気したことはない。しようとも思わなかった。」とか「お母さんと結婚式挙げてないし、前撮りで着物とか着せてやれば良かったかなぁ。」とか、熱いこと言ってた。

 

父が亡くなる一ヵ月前に、私と奥さんの前撮り写真が完成して父の病室に飾るように写真たてに入れて持って行った。

めっちゃ喜んでいた。

私がいないときに、いろいろな人がお見舞いに来るたびに写真をみて喜んでいたと、お見舞いに来た人たちから聞いた。

 

私が一番嬉しかったのは、父が私たちの写真を見ながら「おじいちゃんのせいで碌でもねぇ人生かと思ってたけど、この写真を見てると良い人生だったと思える。」と笑いながら言ってたこと。

「あぁ、ほんのわずかだけど父に親孝行できたかな」と、思った。

本当は結婚式にも出席してほしかったし、孫も見せてやりたかった。

仕方ないんだけど。

 

そして、父は徐々に弱っていき、最後は自分でトイレにもいけないほどになってしまった。

 

父は緩和ケアのできる病院を希望していた。

静かに過ごしたかったようだ。

 

緩和ケアの病院に転院できたのが1月9日。

ああ、やっと希望を叶えることができたなと思っていたら、14日の仕事中に母から「お父さんが危険かもしれないから病院に来てくれ」との連絡があった。

私が駆け付けた時には、父は落ち着いていたが意識はなく寝ているようだった。

 

13日に奥さんとお見舞いに行った時には、喋ることはできないが意識はあり、私の会話に頷いたりできていた。

この時点で結構やばいなと予感はあったが、あっという間だった。

 

 14日に駆け付けてから、意識が戻って会話をしたかったがそれは叶わなかった。

 いや、母たちがいったん家に戻ってまた来るとなり、病室に父と二人きりになったとき私が「辛い?大丈夫?」と声を掛けたとき、ほんのわずかだが頷いたように私には見えた。

私の希望でそう見えただけかもしれないが、聞こえて反応してくれたんだと思いたい。

それが最後のやりとり。

 

私、母、妹、奥さん、みんなが揃っていた。

その時は突然だった。

一時間くらい置きに看護師さんがきて血圧等確認していたのだが、看護師さんが「呼吸もしてないし脈も確認できない。お別れしてください。」と告げた。

あまりにもあっけなくて呆然とした。

 

母が「辛かったね。頑張ったもんね。好きなものたくさん食べてね」と言ってボロボロ泣いていた。

私は何も言えなかった。

 

最後に父が苦しんで逝かなくてよかった。

本当に気付かないくらい穏やかに亡くなっていった。

最後はガリガリに痩せてしまっていた。

食べることが大好きで、あんなに恰幅がよかったのに。

さようなら、お父さん。

 

その後はすごい勢いで過ぎていった。

医師による死亡確認、葬儀屋による家への搬送、葬儀の準備。

あっという間に告別式当日。火葬。

 

父は本当に身内だけの小さい葬儀を希望していた。

だから、新聞にも掲載しなかった。

それでも告別式の当日にはたくさんの人が来ていた。

父は恥ずかしかったかな。

 

父の強い希望で告別式は「音楽葬」とした。

亡くなる前に、流して欲しい曲をリストアップしておくという周到さ。

父らしい。

 

私の友達なども来てくれて、本当に元気づけられた。

父の告別式に来てくれた人や香典をくれた人達が落ち込んだり悩んだりしたときは、力になろうって思った。

 

後日、母の兄であり、父の友人でもあるおじが「お父さんらしいすっきりさっぱりした式でお父さんの『まぁ、ひと足先に行ってるから、あわてずに来てくれ』という声がしてきそうだった」と言っていた。

まさにその通りだなって思った。

 

「俺もあと60年くらいしたらそっち行くわ。それまで好きなもん食って、好きなことして、おじいちゃんぶっ飛ばして元気にやってて!」そう思ってお別れした。

 

家族を亡くした人が「まだ生きているような気がして、今にも声が聞こえてきそう」とよく言う。

これは本当で、私も実家にいると父の声が聞こえてくるような気がする。

 

みんなで食事をとるときの父の定位置に誰もいない。

「あぁ、お父さんはもういないんだなぁ」と実感する。

それでも私の中には父は生きていて、声が聞こえてくる。

「お母さんを、家族を、頼んだぞ」と。

 

今はまだ胸にぽっかりと穴が開いた感覚で、ふとしたときに涙が出てくるけど前へ、前へ進まないと。

この悲しみとか絶望を乗り越えたら、また人間として一回り成長できるかな。

成長した姿を父に見せないと。

 

さぁ、また明日から日常が始まる。

母が告別式のあいさつで言っていたが、「何事も覚悟を決めればうまくいく」というのが父の座右の銘だったようだ。

覚悟を決めて、明日からぶっこんでいくぜ。

 

追伸 ↓音楽葬の曲目。この曲を見聞きするたびに父を少し思い出して欲しい。こんな人もいたんだって。しっかし、曲目も父らしい。笑

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